五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて~堀之内貝塚~

今回は、五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて(前編)より、聖ヶ丘道場跡近くにある、堀之内貝塚という縄文時代の遺跡に立ち寄った箇所を取り上げます。

武蔵野線で東松戸駅まで行き、北総線に乗り換え北国分きたこくぶん駅に着きました。聖ヶ丘跡までは徒歩十分程です。北総線は新しい線で、昔は、南の総武線の市川駅からバスで行きましたから、若干時間がかかったものと思います。
 聖ヶ丘の東向かいに、堀之内ほりのうち貝塚という縄文後期・晩期の遺跡があります。市川は全国有数の貝塚(縄文人が食べて捨てた貝殻が積み重なったもの)の密集地帯です。面白そうなので立ち寄ってみることにしました。遺跡一帯は、貝塚公園として整備され林になっており、下を見るとはまぐりやシジミなどの貝殻の破片があちこちに散らばっていました。考古博物館があり、出土している土器や土偶も見ました。数年前には少し離れた遺跡で、七千五百年前の、日本最古の丸木舟も発見されたそうです。
 昔、市川に、宗左近そうさこんという、縄文美術を深く愛した有名な詩人がいました。氏は、「市とは神との交易の場所のこと。市川は歴史の向こうの縄文の都だったのではないだろうか」との考えから市川に移り住んだそうです。聖ヶ丘周辺は、古い時代から、神々と交流する祈りの場だったのかもしれません。
 五井先生の「神の子の自覚に生きし日本ひのもとの太古の民に還へる真祈まいのり」「神言かみごとのひゞきのまゝに生きて来し古人いにしゑびとに還へる真祈り」(詩集『いのり』収録)という歌を思い起こしました。かつて人類が神の生命の響きのままに生きていた時代があり、いつしか、自分が神より来きたる生命であることを忘れてしまったわけですが、平和の祈りの光明波動によって、肉体にまつわる業の想いが浄められ、もう一度、神代の古人の姿に還っていくわけです。
 先生が仰しゃっている太古の日本の民というのは、縄文より、もっと前のことのようにも思われますが、縄文土器からは、作為のない生命のままのおおらかな響きが伝わってきます。

五井先生ゆかりの地・市川を訪ねて(前編)より抜粋
貝塚の案内板
貝塚公園として整備された林
足元に散在する貝殻

足元に、縄文人が食べた貝の殻が散らばっているのには感動しました。
案内板を読むと、イボキサゴという小さくて丸い巻貝が一番多く、次いでハマグリやオキシジミが多くなるとのこと。
貝塚からは、貝殻だけでなく、縄文人が食べていた、クロダイやスズキなど東京湾でとれる各種の魚、イノシシやシカなどの骨も見つかっています。コウイカも多いとのことで、普通ならイカは残らないのでしょうが、甲羅のあるイカなどでわかったそうです。

市川には、国の史跡に指定されている堀之内、姥山、曽谷の三大貝塚をはじめ、縄文時代の貝塚が55カ所もあります。
縄文時代の貝塚は、単なる食料の残りかすを捨てたゴミ捨て場ではなく、食材となった魚介類、食事として頂いた生物や、使わなくなった道具に感謝し、生き物や物の生命をあの世へ送り、再びこの世に戻ってくることを願った聖なる送りの場だったのではないか、と考えられているそうです。
この地では、縄文人たちが深い感謝と祈りを捧げていたに違いありません。

堀之内貝塚出土の注口土器。市川市立博物館にて

隣接する市川考古博物館に、出土品が展示してありましたが、3600年前の注口土器は、細い線で三角形や菱形の幾何学文様が刻まれ、実用的で洗練された美意識を感じさせました。把手に紐を通し、土瓶のように使ったようですが、特別な宗教的なまつりに用いたのでしょう。

世界平和の祈り発祥の聖地・聖ヶ丘の周囲が、何千年も前の、太古の民の祈りの聖地でもあったと思うと感動するものがありました。
私たちが毎日、世界平和の祈りを祈り、食材となった牛さんや豚さん、鳥さん、お魚さんの天命が完うされますようにと、祈りながら食事をしていることは、それらの生物の魂を、天界のより高い世界に昇華させる光の行為になっていることと思います。